「世界の自然を愛し、世界の街を愛し、世界の人々と交流する」  Global Communication Travel (GCトラベル)


 
 

ホームペイジーへ


人物の事績をたずねる――ポーランドの4大偉人――
コペルニクス(1473-1543) ショパン(1810〜1849) ザメホフ(1859~1917) キューリー夫人(1867〜1934)


ポーランドは1795年以来123年間ロシア、ドイツ 、ハプスブルグ帝国(オーストリア)の支配もとに苦しみました。しかしポーランドからは歴史に残る仕事をした人が多数生まれました。そのうちの4人を紹介しますが、これらの人々の事績を訪ねる旅はあなたに何か良いものを贈るでしょう。ポーランドを流れる最長の川はヴィスワ川で、クラクフの近くのベスキト山脈を源とし、ワルシャワ、トルンを通り、グダンスクからバルト海にそそぎます。
(1) コペルニクス(1473-1543)
ショパン、ザメンホフ、キューリー夫人の3人と異なり、ミコワイ・コペルニクスはポーランドがもっとも栄えたときに過ごしました。1473年にトルンで生まれ、ポーランドの京都といわれるクラクフ大学を修了しました。1491年に天動説に懐疑的なクラクフ大学のアルベルト・ブルゼフスキ教授から天文学に触れました。その後、イタリアのボローニュ大学で法律を学び、聖職者になります。クラクフ大学の天文学講座で同窓生だったヴァボフスキが協力して、地動説を主張する「地球の回転について」は1543年に出版されますが、この販売は1543年彼が死を迎える直前まで彼が許さなかったといわれます。イブン・アル=シャーティルなどのイスラムの学者の影響をうけたといわれます。遺体はフロムボルクの大聖堂に埋葬され、2005年DNA鑑定され確認されました。
(2) ショパン(1810〜1849)
  フレデリック・フランソワ・ショパンは1810年にワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラ生まれました。ショパンの父、ニコラはロレーヌの農民でしたがポーランドに移住し貴族のフランス語の家庭教師をしました。その後ワルシャワに移ります。そこでフレデリックはジブヌイからピアノの指導を受けました。8歳で公開演奏をして注目を浴びました。彼の才能は順調に伸び,1810年に待望のパリに行きます。パリではユーゴー、バルザック、ラマルティーヌが新しい詩と散文を発表していました。ここで彼はピアニストのカークブレンナー、オペラのロッシーニ、ハンガリーからのリストなどの交友関係が生まれます。そして女流作家のジョジュル・サンドとの恋愛事件が起こります。しかしこの恋愛にも破れ、1849年わずか39歳の生涯を閉じます。
(3) ザメホフ(1859~1917)  
ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフは1859年ポーランドの北の都市・ビヤリストックに生まれます。この新興都市には、ユダヤ人の数が1番多かったのですが、ロシア人、ドイツ 人、ポーランド人の間で争いが絶えず、またユダヤ人は差別を受けました。言葉の違いがこの原因の一つと思い、少年ルドヴィーコは、誰でも短時間で学べ、すぐに会話できる言葉を構想します。父の仕事の関係でワルシャワに移住しますが、眼科医の勉強とともにこの構想を続け、エスペラントという言葉に結実します。ITの発達、普及で世界の誰ともコミュニケーションができる時代となり、やさしい言葉は注目を集めています。
(4)キューリー夫人(1867〜1934)  
現在、東京電力福島第一原子力発電所の事故で放射能という言葉が毎日使われています。放射能という言葉を最初に使ったのがマリア・サロメ・スクウォドフスカで、フランス人ピエール・キューリと結婚したため、マリア・スクウォドフスカ=キューリーとなり、キューリー夫人として知られています。1903年にノーベル物理学賞を女性で始めて受賞し、夫の交通事故での死後、1911年にノーベル化学賞を受賞しました。彼女は、ロシアのポーランドの分割地域ワルシャワに住み、そのため父は貧困に苦しみました。家庭教師をして貯めたお金でフランスのパリ大学で勉学に励み、卒業後、夫ピエール・キューリと共同で研究に励み新元素ポロニウムを発見します。これは、彼女の祖国への思いでありました。

明治維新とヨーロッパおよびアメリカ
明治維新前後にアメリカやヨーロッパに行って先進国の状況を学んだ人々によって日本は比較的短期間に近代化に成功します。
欧米を視察したり、留学してその方法を学んできたのです。そして教育者として、政治家として、官僚としてアジアでトップバッターとして前進しました。
勝海舟 滝 廉太郎 伊藤 博文
勝海舟→アメリカに、かん臨丸の艦長として
福沢諭吉→アメリカとヨーロッパに「西洋事情」「学問の進め」の著者。慶応大学創立
西園寺公望→若くしてフランス留学、立命館大学の学祖、内閣総理大臣
滝廉太郎→ドイツ 豊後出身ライプニッツの音楽学校で学ぶ、「荒城の月」24歳で亡くなる。
中江兆民→フランスに留学→ルソーの社会契約論を民約論として翻訳
新島襄→上州安中藩出身、文久3年→アメリカ、アーマスト大学、同志社大学創立
内村鑑三→高崎藩士出身、札幌農学校後アーマスト大学
新渡戸稲造(1862~1933) →札幌農学校後ジョン・ホップキンス大学
山縣有朋→戊辰戦争後、欧米視察、元帥陸軍大将、内閣総理大臣
伊藤博文→長州藩、イギリス、最初の内閣総理大臣
井上馨→長州藩、イギリス、外務大臣、大蔵大臣
寺島宗則→薩摩藩、文久遣欧使節の一員,
五代友厚→ヨーロッパ、上海、大阪商船とか南海鉄道の創立
榎本武楊→オランダ、幕臣出身、外務大臣、農商務大臣、東京農業大学創設
中村敬宇→幕臣出身で英国に、スマイルズの「西国立志伝」を翻訳する。
東郷平八郎→薩摩藩,イギリスのmerchant navy college(商船学校)に、日露戦争の連合艦隊の指揮者、ロシアバルチック艦隊を破る
大山巌→薩摩藩、スイス、ジュネーブに留学
○ 明治維新は成功するが司馬遼太郎によるとどのように政府を運営して近代国家を成立させるという青写真がなかったという。そこで岩倉具視を特命全権大使とする大使節団をアメリカやヨーロッパに派遣した.使節46名、随員18名、留学生43名、全員で107名であった。使節は薩長中心、書記官旧幕臣からえらばれた。明治政府の財政の基盤を安定化し、富国強兵を行うためにどうするのかという具体的な指針を得ることを第1の目的とし、其の実現を図るための人材の観点から留学生が選ばれたと思われる。 これらの使節団の中から主な人を挙げると 岩倉具視大使、4人の副使 
木戸孝允→長州藩、大久保利通→薩摩藩、伊藤博文→長州藩、
山口尚芳→佐賀藩
田辺太一→幕臣としてフランスで万国博覧会に、この使節団では1等書記官として参加,
何礼之→幕臣として通訳、また長崎、江戸で英語塾を開き教える。前島密、陸奥宗光、星亨などを教える。
福地源一郎→幕臣、ジャーナリストとして活躍、山田顕義→初代司法大臣,日本大学、國學院大學学祖、留学生のなかにはイギリス→中井兆民フランスに続き、アメリカ→金子堅太郎、司法大臣、日本法律学校初代校長(現日本大学),明治憲法の草案に参加、団琢磨→アメリカ・マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学ぶー三井鉱山技師の後、三井合名会社理事長、牧野伸顕→アメリカ・フィラデルフィアの中学、外交官、文部大臣、大久保利通の息子、津田梅子→幕臣、津田仙の次女、アメリカ満6歳の最年少留学生、私立の女学校アーチャー・インスティチュートに進学,女子英学塾(現津田塾大学)を設立、大山捨松→旧姓山川捨松、日本女性ではじめてアメリカの大学、ニューヨーク州ヴァッサー大学を卒業、この大学卒業後コネチカット看護養成学校で上級看護婦の免許を獲得、日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所設立の資金集めに多大な貢献、津田梅子の津田塾大学にも大きな貢献,大鳥圭介→福沢諭吉と同様な適塾出身,工部大学校の発足に伴い、校長となる。技術官僚として官営工場のセメント、ガラス、造船、紡績などのモデル事業の発展に尽くす。 この大使節団の人々は日本の近代化のために非常な貢献をした。ゆかりの地を訪ねるのは意義がある。東北・東日本大震災後、どのように新しい日本を建設するかは重要な問題である。これらの人々の事跡からヒントが得られるであろう。






 株式会社 グローバルコミュニケーショントラベル (GCトラベル)

東京都知事登録旅行業 第3-3969号   旅行業務取扱主任者 大庭 滋子
〒160-0023 東京都新宿区西新宿7-1-7 ダイカンプラザA館 419号
  TEL 03-3364-4963 / FAX 03-3364-0504     
mailメール:esp@gctravel.co.jp  


Copyright 2000- © Global Communication Travel.  All Rights Reserved 無断転載を禁止します