


海山先生(33) ウィーンに1ヶ月住む―シェーンブルン宮殿
―シェーンブルン宮殿はどのようにして建てられたのですか?
海山栄:オーストリアというのはドイツ語で東の国でありトルコなどのアジアからの防衛を担う国とされていました。事実オスマン帝国から1529年第一次の包囲があり、1683年には第二次包囲が行われました。オスマン帝国からの脅威が去った後レオポルト1世はマクシミリアン2世が狩猟地として使っていた土地に夏の離宮として宮殿をたてることを決めました。ハプスブルク家は30年戦争やオスマン帝国の包囲などでかっての力がなくなっていましたが宮殿の建設でかっての勢威を回復させたいと願っていました。ヨハン・ベルンハルト・エルラッハに設計を依頼しました。当初の計画はフランスのベルサイユ宮殿をもしのぐ壮大なものでしたが財政的に苦しく建設は遅れ、規模は縮小され、マリア・テレジア治世の1750年ごろに完成されました。
―マリア・テレジアは王位をカール6世から引き継ぎますがそれは順調だったのですか?
海山:いいえ。マリア・テレジアの父、 カール6世はベルギーやナポリ、ハンガリーからポーランド西部などの一大帝国を支配しましたが特に目を引くのが相続順位法です。
―相続順位法は何が狙いですか?
海山:長子相続を明確に打ち出しました。英仏は長子相続なので領土が分割されることはありません。ハプスブルク家では領土を兄弟で分割して相続しました。この法律は兄弟争いなどの内紛を防ぐことが目的であったのですが嫡男がいなかったので女性のマリア・テレジアでも嫡男と同様に相続できることを意図していました。ハプスブルク帝国の国内では各州の議会がこれを承認したので国内法となったのです。英仏、プロイセン、バイエルンなどはなかなか認めませんでしたのでこれらの国々に領土の一部を提供してやっと承認を得ました。 しかしカール6世が1740年に逝去するとマリア・テレジアは大公女にすぎない、しかるべき男性が王位につくべきだとプロイセンなどの諸外国は認めませんでしたのでオーストリア継承戦争が始まったのです。プロイセンのフリードリッヒは2ヵ月後に軍隊を発進させポーランド西部のシュレージェン占拠してしまいます。
―マリア・テレジアはプロイセンのフリードリッヒの仕業に泣き寝入りしたのですか?
海山:いいえ。女王に即位して間もなく、ハンガリー議会に乗り込みプロイセンの非を訴え、協力を要請した。ハンガリー人は唯々諾々と従うことはなかったのであるがマリア・テレジアの真摯な訴えに魅了され兵士と資金を提供して戦うこととなった。またハウクヴィッツやカウニッツ伯爵を登用して政治の改革を行いプロイセンの首都ベルリンの占領のもう一息のところまで反撃した。しかしシュレージェンは戻らなかった。
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アイルランド(15)
―アイルランドに移民したケネディ家(1)
―アイルランドがジャガイモ飢饉に陥った時に多数の移民がイギリスやアメリカなどに行ったのですね。
海山栄:そうです。この時のアイルランドの移民で非常に有名なのがケネディ家です。1849年ウェックスフォード県出身の農民であったパトリック・ケネディはアメリカのボストンに移民します。ジャガイモ飢饉の時でアメリカ第35代大統領になったジョン・F・ケネディの曽祖父に当たります。その子のパトリック2世は(1858~1929)は港湾労働者として仕事をはじめ、やがて酒の小売りと酒場の経営という事業に成功します。
―ケネディ大統領は暗殺され、またその業績によりケネディ神話が生まれたといいますね。
海山:土田宏氏の「ケネディ」よればケネディ神話はアメリカの大統領の中でやはり暗殺されたリンカーン大統領とジョン・F・ケネディの二人であると述べています。そして大統領選で劣勢だったが民主党のビル・クリントンは自分をケネディ大統領の再来として演出し見事当選を果たしたといいます。ケネディ大統領のいまだに続く影響力の一例です。
―アイルランド人は差別されたといいますがケネディ家はどのようにそれを乗り切ったのですか?
海山:ボストンにはインドのカーストの最上級のブラーミンという言葉を使ってボストン・ブラーミンという単語があります。これはボストンのイギリス系住民の上流階級のことです。イングランド人はアイルランド人を差別しましたがボストンでも同様なことが行われました。ブラーミンと呼ばれるボストン住民はアイルランド人がカトリックだったので最下層の人間として扱いました。普通のアイルランド人は1日15時時間、週7日働き、やっと食べるだけの賃金しか受け取れず、貧民街に住みました。しかしこのような状況 にあったのでアイルランド人は団結し苦しい生活に耐えました。アメリカ市民となると投票権が得られます。アイルランド人はボストンに集中して住みました。数の力に気がつき、1961年に始まった南北戦争のころ,ブラーミンが共和党支持だったのでアイルランド人は民主党を応援するようになります。ケネディ大統領の祖父であるパトリック2世は自分の酒場を党の集会所や選挙本部として提供し影響力を増すとともに自身も20代にしてマサチューセッツ州の州議会の下院議員に当選します。

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