


―ロンドンのシティは金融の中心地ですね
海山栄:はい。世界一はニューヨークですがロンドンも有力な世界の金融の中心地です。そこにはシティと呼ばれる一角があります。それは自治行政地区で広さはほぼ一マイル四方で約2.5平方キロでセントポール大聖堂、イングランド銀行をはじめとする大銀行、ロイズ保険機構をはじめとする保険会社、株式取引所があります。また多くの大企業がここを根拠地としています。シティは正式にはシティ・オブ・ロンドンで古代ローマ人が植民地として建設しました。
―シティに取引所が出来たのは何時ですか
海山:シティのロンバート・ストリートには商人が集まって商談をしていました。しかし建物がなく不都合でした。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則で知られているトーマス・グレシャムなどの尽力で1570年エリザベス1世臨席のもとにオープンしました。そのため王立取引所と呼ばれました。スペインとの戦いなどでの戦費の調達にこの取引所が役立ちました。
―産業革命、その結果、イギリスは世界経済の中心となりますがシティはどんなでしたか?
海山:株式会社は16世紀半ばに誕生し1695年には少なくとも140の株式会社が存在していました。数多くのブローカーも存在しましたが彼らの中にはあくどい仲介業者もいたため規制の必要が要請されました。そしてブローカーは免許を得なければならなくなったのです。1770年頃にワットの蒸気機関が発明されました。1785年には蒸気機関が紡績機械にも取り付けられるようになり生産力が飛躍的に向上しました。だんだんと工場は複雑化かつ大規模化し、より多くの資本が必要となり、特に1830年以降鉄道ブームが起こるとこの傾向は顕著となりました。1838年にはロンドンとバーミンガムを結ぶターミナルとしてユーストン駅が作られました。このような工業化の進展によって資金調達がますます重要となり、シティの役割が高まったのです。
―イギリスの時代は二つの大戦で去りましたがシティはどうなりましたか?
海山:イギリスの世界に対する役割は低下しましたが1979年のマーガレット・サッチャーの保守党内閣の出現によってビッグバンという自由化が行われました。株式の手数料が自由化され、ロンドン証券取引所の会員権が自由化されました。その結果多くの外資系企業が参入してハイリスク・ハイリターンの状況になりました。批判はありますがイギリスの経済力は復活しました。しかしイギリスはEUを離脱しました。これがシティにどう影響するか人々の注目の的です。
(すべてを読む)
アイルランド(23)―ゲール語と英語
―アイルランド人は英語の国イギリスに反感が強い国なのにどうして先祖の言葉、ゲール語はほとんど話されていないのですか?
海山栄:それはイギリスの支配が長かったからです。プランタジネット王朝のヘンリー2世が12世紀にアイルランドに侵入し、以後800年に及ぶアイルランドの植民地化の歴史が始まりました。1801年にアイルランドを自国に併合します。ナポレオンのフランスとの対立がイギリス最大の国家的危機だったからです。アイルランドが独立したのが1921年です。イギリスに併合された期間は120年間ですが支配されたのは約800年間です。この間英語が公式用語として強制されました。特に英国への併合後1831年からの国民学校は英語による教育が行われた影響が大きいようです。アメリカに移民するにしても英語が上手なほうがプラスなため親は子供に英語の習得を勧めたという現実があったのです。
―自国語のゲール語がほとんど話されなくなり英語になってしまったことを考えて発言している人がいますか?
海山:ジェイムズ・ジョイスは20世紀最大の文学者とも称されまが「若き芸術家の肖像」のなかで「ぼくの祖先たちは自分たちの言葉を投げ捨てて別の国語を身につけた」と書いています。これはゲール語を捨てて英語を身に着けたことを意味しています。
―ポーランドも123年間世界地図から消えるという亡国の悲劇を味わいましたが。
海山:ポーランドとアイルランドとは強国による支配点で似ています。ポーランドは1795年、ロシア、オーストリアの三カ国によって分割され支配されました。ポーランドは123年間も支配されて随分長いと思いましたがアイルランドの英国の直接支配はポーランドとほぼ同じ120年間ですが植民地化されたのはポーランドに比べてはるかに長いです。女性で初めてノーベル賞を受賞したキューリー夫人はポーランド語をワルシャワでの学校生活で使うことを禁止される経験をしています。ロシア語と同じスラブ系言語のポーランド語は力強く生き残ります。ゲール語がほとんど使われなくなったのは長い長いイギリスの支配によります。
―ユダヤ人はヘブライ語を復活させましたね。
海山: はい。ザメンホフより1年前の1858年に生まれたエリエゼル・ベン・イェフダーという人がいます。彼がヘブライ語復活の中心人物です。生まれは当時はロシア帝国領で現在はベラルーシ領です。1878年パリのソルボンヌ大学に留学しますがそこのヘブライ語のクラスでヘブライ語で授業が行われているのを見てヘブライ語を日常生活に復活させることを決心します。「共通の言語なしに民族は成立しない」という信念からです。

esp@gctravel.co.jp